少し、震災話から離れていたけど、私の記憶が曖昧になる前にいくつかのことを書いておこう。父の友人夫妻。自宅が津波で被災。本人たちは無事でした。ところが、勤め先から子どもたちが帰っていない。新婚さんの長女夫婦と、次女の三人。三人とも勤め先が近かったため、一台の車で相乗りしてそっちに向かうから、の会話の後連絡がとれず。今となれば、一番通っちゃいけないルート。多分、ラジオをつけていなかった。三人とも20代前半と若かった。まさかあんな規模の津波が来るとは思っていなかった。そんな感じだったと思う。ご両親は避難所で寝泊まりしながら、子どもさんたちの行方探し。どこかの避難所にいることを信じて。うちの自宅は割と早くに水道とガスが復活。煮炊きは都市ガスだけど、お風呂だけはプロパンだった。父が避難所から夫妻を連れ出し、お風呂に入れ、ささやかだけど食事を摂ってもらう。着の身着のままだったので、着替えやスカーフを渡す。うちに泊まってもらおうかと思ったけど、かえって辛いだろうと。奥さんが、味噌汁を飲みながら
涙を流してた。ああ、おいしい。温かい食事がこんなにありがたいなんて。そしてポツリと、娘たちは多分生きていないと思うの。涙のひとつも流さず。このときだけは悔しかった。結局のところ、自分の家は物。命はそうじゃない。そして、帰るときにはご迷惑をかけてごめんなさいね、とらちゃんのところだって大変なのにとこちらのことまで気遣ってくれた。取り乱して八つ当たりしたっておかしくない状況。痛々しい姿と同時に凛とした姿でもあった。この姿こそが日本人だと思った。この日に聞いたかどうか記憶が定かではないけれど、奥さんは、通りすがりの美容室で髪を切り、染めてもらったのだと言う。電気もお水もガスもままならない時期だったから、簡易的にだけど。こんな時にどうかと思ったのよ。でも、いつもきれいにしてきたし、娘たちに笑われないようにと思って。三人は数日後、ご遺体で見つかった。家まで後少しのところで。こんな親だけど、娘たちは本当に親孝行でね、良くしてくれたのよ。20代前半にして、親にそう言わせる子どもはそうそういない
。私は下の娘さんの勉強を一年間みていた。聞けば彼女は、お友だちがたくさんいて、みんなでいつも楽しく遊んでいたそう。娘は短い命だったけど、人の何倍も人生を楽しみ生きたんだと思うの。本当だね。私はまだ、直接手を合わせていない。恥ずかしいことだと思う。父は花瓶を用意したり、避難所から葬儀会場への送り迎えをしたり、黙々と動いていた。彼は10代半ばで父親を亡くしている。遺体は海に消えた。だからというわけじゃないけど、その痛みがどんなものか人よりもわかったのだと思う。死者行方不明者一括りになっちゃうのは仕方がない。ただ、それぞれにそれぞれの事情があり、気持ちがある。自分より若い人が亡くなる虚しさは独特だと思った。